ここ数日、体調が優れなくて臥せっていた。だが今日は久しぶりに
すこぶる体調が良かった。頭の中で響くようにあった鈍い痛み
も、すっきりと消えてしまっていた。そうなれば、無性に身体
を動かしたくなった。身体が鈍っているに違いない。 ほんの少しだから、剣の素振りをするだけだからと、看病をしてく
れていた朔に頼み込んだ。朔も最初は頑として首を縦に振って
くれなかった。だが、望美がいつまでも頼むのでとうとう根負
けした。 本当に少しだけと念を押されて、望美は庭に出た。雪が降り積もっ
たので暖かい格好をしなさいと言われた。朔の声に母の面影を
見た。 陽の光が雪に反射してすこし眩しい。手のひらをかざして、光を遮
りながらゆっくりと足を踏み出した。庭に足跡を残しながら、
剣を振るえるだけの広さのある位置に立つ。 臥せる以前よりも少ない回数の素振りで息が切れた。思ったとおり
だった。 情けないと忸怩たる思いで剣を地面に突き立てた。顔を上げた視界
に白い壁がとびこんで来た。高館を囲う塀だった。 無性に壁の向こうに行きたくなった。 朔に反対されるのが目に見えていた。それならば、言わなければい
いだけのこと。少し後ろめたさが残るが、今日は調子がいいの
だし大きなことにはならないだろう。門に向かって歩き出す。
足音を立てないように、朔に気づかれるような物音を立てない
ように。 注意深く歩いていた望美の背後で雪を踏み均す音がした。 「どこへ行かれるおつもりかな?白龍の神子殿」 心臓が跳ね上がるとはこのことだ思った。怒られた子どものように
望美は肩をすくめた。その後の怒涛のお小言に耐えるためだ。
しかし何も言ってくる様子がない。そこでふと考えた。 望美のことを白龍の神子と呼ぶのは一人しかいない。足音の主は泰
衡だった。 望美は泰衡の問いには答えずに会釈した。できれば答えたくなかっ
た。 「こんにちは」 「神子殿、私のお見受けした限りではどこかに行かれるつもりなの
ではないのか?」 「中尊寺まで散歩に」 とっさに口をついて出たが名案だと思った。雪の白と金色は空の青
にきっと映える。 「お一人でか?」 「はい」 「確か神子殿は臥せっておられたのではなかったかな?」 「もう、よくなりました」 次第に急く気持ちが膨れ上がる。答えながら、駆け出したくてたま
らなかった。 「だが、万全の体調というわけではなさそうだ。自重していただこ
うか」 「嫌です」 「・・・・・何か仰られたかな?神子殿」 早くこの場を去らなければ朔に見つかってしまう。そうしたら中尊
寺には行けなくなる。いつまでも押し問答を続けてはいられな
かった。 「じゃあ、泰衡さんが付いてきてくれれば問題はありませんよね?」 泰衡が眉を顰めたのがわかった。構わずに泰衡に背を向けて、改め
て門に向かう。足音に気遣うのは忘れなかった。 外に出て大きく深呼吸した。冷たい空気に身体が驚いたのか、深呼
吸した拍子にくしゃみが飛び出した。それから肩の重みが増し
た。 「神子殿は平泉を甘く見ておられるようだ」 「泰衡さんっ!?・・・何で・・・」 本当に付いてきてくれるとは思っていなかった。驚きで声が高くな
った。重みを感じた肩には厚手の衣が掛かっていた。 「あなたが付いてこいと仰ったと思ったが?」 「それは、そうなんですけど・・・」 二の句が継げないでいると泰衡はさっさと歩き出す。望美も後を追
った。吐き出す息は白く、空に吸い込まれるように消えた。 「本当にいいんですか?」 泰衡の背中に声をかけた。泰衡は立ち止まってから振り向いた。 「泰衡さん、九郎さんに用があるんじゃないんですか?」 泰衡が高館に足を運ぶ理由はそれくらいしか思いつかなかった。 「あれば神子殿に付き合いはしない」 「じゃあ・・・」 何故かと訊く前に泰衡が口を開いた。不機嫌そうな表情を隠そうと
もしない。 「父上に神子殿の見舞いを頼まれた」 泰衡の父であり、九郎が御館と慕う秀衡を思い浮かべた。その威厳
漂う姿に圧倒されるが、とても人情に厚いのだとも知っている。
心配して泰衡を遣してくれた。その想像は心が温かくなるの
に十分だった。本当に嬉しいと思った。 「秀衡さんにありがとうございますって伝えてください」 「承ろう。あまり必要でなかったことも伝えておく」 後者の言葉は余計だと思い、抗議しようかと考えていると泰衡は衣
を翻して歩き始めていた。 泰衡の歩幅は大きく、望美は小走りにならないと追いつけなかった。
追いついて隣に並んでもすぐにまた引き離された。望美は泰
衡の隣に並ぶことを諦めた。並べないのなら足を止めさせれば
いい。 「泰衡さん、お見舞いありがとうございます」 先を歩く泰衡が立ち止まった。長いため息をつく。何度も同じこと
を言わせるな。暗にそう言われていた。 「それは父上に伝えると言ったはずだが」 「今のは秀衡さんじゃなくて、泰衡さんになんですけど」 泰衡が望美に近寄る。望美を見下ろして片方の口元を吊り上げた。
微笑むとかそんな可愛い形容ができない笑みだということが望
美にもわかる。 「神子殿は何か思い違いをなさっているようだ」 「思い違いですか」 「私は父上に頼まれたから来たまでだ。銀も手が放せなかった。そ
れだけだ」 それでも泰衡ならどうとでも理由をつけて回避できる。神子を見舞
うなど何の利益にもならないことをわかっているはずだ。 「思い違いでもお礼を言いたかっただけです」 それに、と望美は可笑しそうに言葉を紡ぐ。 「結局散歩に付き合ってもらっていますから。それについてはお礼
を言っても構いませんよね」 泰衡の表情は変わらない。ただ、背を向けた。 「神子殿、あなたはもう少し人を疑われることを覚えたほうがいい」 どんどん遠ざかる背中を望美は追う。泰衡の言った言葉の意味を考
える暇は今はなかった。


泰衡さんに「何か仰られたかな」と言わせたくて考えた話でした。それから
この背景を使いたかったんです。 泰衡さんの話には絶対使おうと思っていました。 どうでもよさそうなタイトルで申し訳ないです。 いっそ、何か仰られたかなにすればよかったでしょうか・・ 20060307