腕相撲 見上げれば目が眩むほどの陽射し。本日は快晴。季節は夏。 ほとんど一日中歩き続けて、宿に到着した。 譲の元いた世界では滅多にない経験だ。 弁慶の頭部にかかる漆黒の衣の内部は暑くなかったのだろうか。 ふと、そんなことを考えた。 ちらりと横目で見れば、本人は涼しげな顔をしていた。 きっと九郎と同様に暑気など気合で拭えるのだろう。 人を外見で判断してはいけないというけれど、 弁慶はそのお手本と言っても過言ではないだろう。 話しかた、立ち居振る舞い、どれをとっても感じさせるものは聡明さ。 薙刀を振るわせれば九郎と互角たる実力を持っている。 そんな想像にすら至らない。 その弁慶が振り向いた。視線の先には望美がいた。 望美は弁慶が振り向いたことに驚いたのか、少し顎を引いた。 弁慶は望美に近づいて、話しかける。 そこまでで、二人を目で追うのをやめた。 一部始終見ているのは趣味が悪い。たとえ、気持ちは正反対でも。 「あ、あつい!?」 裏返ったような甲高い声がして、思わず振り向いた。 近くにいた何人かが同じように振り返ったのが見えた。 その何人かはすぐに目線を元に戻した。けれど、譲はできなかった。 弁慶は楽しそうに微笑んでいて、望美は頬を赤く染めている。 頬を赤く染めたまま、弁慶に何かを言っていた。 見ていてはいけないと思うのに、 二人の仲のよさを見せ付けられるだけだとわかっているのに、 目を逸らすことが出来なかった。 弁慶が心外そうに表情を変えると望美が俯いた。 望美と弁慶の居るほうへ自然と足が向いていた。 「弁慶さん、先輩が困っていますから」 そんな風には見えなかった。ただ、二人をこれ以上見ていたくなかった。 望美を背に庇い立つ。 背の高い譲が目の前に立てば、望美はすっかり隠れてしまった。 弁慶は驚いた表情で譲を見た。それから何かを悟ったようにふふっと笑った。 「何ですか」 譲が憮然とした顔をする。余裕たっぷりに見える笑顔が気になった。 「そうですね。望美さんを困らせるのは僕の本意ではありませんから」 じゃあ、何がしたかったんだ。 譲がそう思ったときには、弁慶は黒衣を翻していた。 背中からため息が聞こえた。譲は背中に隠していた望美と向き合った。 「すみません、先輩」 その声につられるように望美は顔を上げた。 思いにふけるような、呆けたような顔をしていた。 譲が怪訝そうな顔で、もう一度声をかけた。心持、声も少し大きめに。 「先輩?」 「あ、ごめん。何だっけ?」 「いえ、弁慶さんとの会話を邪魔してしまってすみません」 「ううん、困っていたのは本当だよ。弁慶さんは突然だから…」 そう言った望美の横顔は大人びて見えた。恋する女性の顔だった。 目を離せなかった。けれど、望美をそんな表情にさせたのは譲ではない。 やっぱり見なければよかった。 近づかなければよかった。こんな思いになるくらいなら。 それでも惹かれるのを止められない。手を伸ばした。伸ばしかけて、やめた。 「突然じゃなかったら、良かったんですか?」 自分自身が驚いた。発した声はいつもの自分に比べてあまりに低かった。 望美はもっと驚いたのだろう。少し怯えたような顔をしていた。 「譲…くん?」 恐る恐る名前を呼ばれた。望美の左手が譲に伸びてきて、袖の袂をつかんだ。 意識しなかっただけで、険しい表情をしているのかもしれない。 怖がらせたかったわけじゃない。 少し長めに息を吐いて、身体中の力を抜いた。 それから安心させようと望美に笑いかけた。 「すみません」 望美はその譲の表情にほっとしたように笑った。 それから、つかんでいた譲の袖の袂を軽く引いた。 「あのね、ちょっと思い出していたんだけど」 望美の瞳が輝いた。 今の一連の流れとは全く関連性のないことを提案してくる。 これまでの経験から譲は知っている。 「腕相撲しようよ」 そういえば、小学生くらいまではよく腕相撲をしていた。 譲と望美と将臣の3人で。 一番強かったのは譲の兄である将臣だった。 そして譲は何故か望美に勝てなかった。 唯の一度も。 それは幼いとはいえ、自尊心が傷つく出来事だった。 今なら、薄々と分かるような気がしている。 望美に勝つことが出来なかった理由。 今、望美がそのことを思い出したきっかけは何なのだろう。 「突然どうしたんですか?」 「え?ええっと…」 言葉に詰まって、目が泳ぎだした。心なしか顔も少し赤いようだ。 言いにくいのか、言いたくないのか。 「言いたくないんですか?」 直球で訊いてみれば、明らかに顔に赤みが差していった。 「だ、駄目かな?」 そう言われてしまえば、「駄目です」なんて言えない。 突然思い出した理由も、言いたくない理由も、 幼馴染の譲には聞き出すことが出来ない。 心中でため息をついた。 「もう、負けませんよ」 望美の顔がぱっと一瞬で明るくなった。袂をつかんでいた手を譲の
それに絡めた。 「あっちがやりやすいんじゃないかな」 譲の手を引いて歩き出す。 腕相撲にちょうどいい場所があったようだ。 繋いだことを意識しているのは自分だけ。 望美の手が温かいと理解しているのも自分だけ。 そう思ったら、自嘲的な笑みが浮かんだ。 「手加減はしないでね」 望美が挑戦的に笑って右手を差し出す。 「そんなつもりありませんよ」 譲も苦笑しながら、手を伸ばす。 少しは歳を重ねて、気持ちを隠すことに慣れている。 なんでもないふりを装うのは簡単だった。 幼少の頃、望美に勝てなかった理由はきっと・・・。 明らかに肩を落とした望美を見て、譲は声を掛けた。 「先輩に力でも敵わなかったら、敵うものは何もなくなってしまいますから」 手加減する余裕なんて、一切なかった。 気を緩めてしまえば、負けてしまうと思った。心の中で胸をなでおろした。 望美はその心中を察する様子もなく、譲の言葉に目を丸くした。 「私、譲くんに敵うものなんてないよ」 料理も、手先の器用さも、敵うものが思いつかない。 「いいえ」 けれども譲は軽く首を振って、望美を見た。 「いいえ、先輩・・・」 二人の視線がお互いに向けられる。 ほんの数秒の時間が、そうは感じられなかった。 望美は何だか気恥ずかしくなって、視線を逸らした。 「でも料理なんて、たとえ修行しても譲くんには絶対敵わないよ」 気恥ずかしさを隠すように、早口で望美が言う。 譲は少し顔を赤くした望美に気づいた。つられて、顔の体温が上昇した。 「じゃあ、そういうことにしておいてください」 譲は赤くなった自分の表情を隠すかのように眼鏡のふちに触れた。 きっと、これからも敵わない。
神子視点で書いたものを譲くん視点に変えました。