いつもは朝起こされても、すぐには起きられない望美だが、 今日は違った。 九郎が倒れたと聞かされたからだ。 飛び起きて、 さらにはそのまま京邸を飛び出して行きかねない勢いの望美を 譲と弁慶が制止した。 「京邸に着いてから倒れたんです。 今は安静にさせてますから、大丈夫ですよ」 弁慶が穏やかになだめてくれた。 譲はさりげなく出入り口に立ちふさがっていた。 飛び出されては困ると思ったのだろう。 「で、でも私に何かできることはないですか?」 今にも泣きそうな顔になっていた。譲が苦笑した。 「じゃあ、お粥を作りますから、 持って行ってもらえませんか?」 「九郎が食べるのを見届けたら、薬湯を持っていきますので、 知らせてください」 望美が手伝いを願い出ることなどお見通しだったようで、 譲と弁慶の言葉は示し合わせたように息が合っていた。 それから粥が出来上がるのを、今か今かと待っていた。 気持ちばかりが焦って仕方ない。 出来上がるまでに何度も譲のところに顔を見せては、 譲に困ったような顔をされた。 そんな顔をさせてしまったからには大人しくしているしかない。 譲が知らせてくれるまでの時間が途方もなく長く思えた。 譲の作ってくれた玉子粥を盆にのせて、 望美は九郎の元へ向かった。 途中走り出しそうになるたびに、 譲の「こぼすと火傷しますからね」という戒めを思い出した。 最初にそういってもらわなかったら今頃、 粥を廊下にぶちまけているに違いなかった。 「九郎さん、入ってもいいですか?」 「…望美?」 「はい。お粥を持ってきました」 「すまない」 入ると九郎は起き上がっていた。 望美を見ると立ち上がろうとまでしたので、 盆を足元に一旦置いて九郎を押し留めなくてはならなかった。 「寝ていなくていいんですか?」 「大したことはない。騒ぎすぎなんだ」 九郎の表情はいつもに増して憮然としていて、 少しだけ不機嫌そうでもあった。 やはり体調が悪いせいだろうか。 望美は盆を持って九郎の枕元に座った。 「お粥、食べられそうですか?」 「もちろんだ。大したことないと言っているだろう」 どうやら不機嫌だというのは間違っていないようだ。 望美が粥を椀に盛ろうとするのを、九郎が止めた。 「必要ない。自分でできる」 強引に望美の手から椀を受け取った。自分で椀に粥をよそう。 椀を口の近くまで運ぼうとして、じろりと望美を見た。 望美が立ち去る気配がない。 「まだ何かあるのか?」 「何かできることはないかと思って」 「ない。さっきからそう言っているだろう。 要らぬ心配をしすぎなんだ」 「心配なんですから、仕方ないじゃないですか」 「迷惑なんだ」 語気を強めた九郎に望美は驚いたように目を瞠った。 九郎は弁慶のように穏やかだなんてとても言えないが、 自分が体調を崩しているときにも怒鳴るとは思っていなかった。 望美が九郎から目を逸らせないでいると、 九郎が先に視線を逸らした。 確かにここで望美にできることはもうない。 せいぜい九郎が食べ終わった頃を見計らって、 椀を下げに来ることぐらいしかないだろう。 言われていた通りに 弁慶に薬湯を用意してもらいに行くことにした。 「じゃあ、何かあったら呼んでください」 「…必要ない」 頑なな姿勢に望美は少し笑った。 九郎には見られていなかったようだ。 粥を食べることに専念していた。 これ以上機嫌を損ねさせるのも賢明ではない。 何だか、子どもを相手している気分にならないでもなかった。 「九郎は大人しく寝ていないでしょう?」 弁慶の元へ行くと、開口一番そう言った。顔は笑っていた。 「世話は必要ないと言われました」 九郎の口調には慣れたつもりだったが、 ああもはっきり拒絶されると少し淋しい。 「あまり九郎の言い方を気にしていると、 君の身が持ちませんよ。僕はそれが心配です」 「ありがとうございます。あ、でも今は九郎さんに 早く薬湯を持っていってあげてください」 「ふふっ。そうですね」 必要ないとはっきり言われたが、 やっぱり心配で見に来てしまった。 しかし、入りづらい。 部屋の外を右往左往していると声が聞こえてきた。 薬湯を持ってきたと弁慶は言った。 飲んで少しは大人しく寝ていてくださいと。 少し、という言い方が九郎には引っ掛かった。 弁慶は言外に何か言いたいのではないだろうか。 今日は先ほど自分を心配してくれていた望美に怒鳴って しまったという罪悪感が九郎を過敏にさせていた。 しかし、その弁慶もそのことについては何も言わない。 根比べで九郎が弁慶に勝てるはずがなかった。 とうとう九郎が弁慶に尋ねた。 「弁慶…、望美は何か言ってなかったか」 「君を心配していましたよ。 最初に倒れたと伝えたときは泣きそうな顔をしていました」 「・・・・」 九郎は言葉に詰まった。 そんな九郎を弁慶は横目で見やって、軽く溜め息をついた。 古くからの付き合いだから、九郎の口調には慣れていた。 力量だけでは鎌倉殿の名代は名のれない。 数千、あるいは万の兵を束ねて率いることなどできない。 言い方が多少悪くても、 相手のことを思いやるくらいの度量は持ち合わせている。 ただそれは付き合いの浅い者にはわかりにくいのだろう。 九郎も気づいていて、直せない自分がもどかしいのだろう。 「謝るなら、自分で言ってくださいね」 「わかっている・・・。俺はいつものように振る舞えているか?」 こんなときだからこそ、自分の身体を労わる必要があるのを わかっているのだろうか。 自分のことなど省みない九郎のことを つい諌めるような口調になってしまった。 「むしろいつもより攻撃的ですよ。 刀ではないのですから、触れるものすべて傷つける必要は ないんですよ」 「・・・・怖いのかもしれん。 いつもよりも弱い自分をさらけ出すことが」 「僕にはできて望美さんにはできないなんて、 おかしな話ですね。 さて、僕はそろそろ行きますけど今日は一日寝ていてください」 立ち上がった弁慶を引き止めるように九郎の声が響く。 「兄上から書状が届いているかもしれん」 「今日は届いていませんよ。届いたら持ってきます」 観念したように九郎の呻き声が響いた。 「・・退屈なんだ・・」 それを聞いた弁慶がくすりと笑った。 「退屈な時間は君には貴いでしょう。 いい骨休みだと思って観念してください」 弁慶は部屋の外で望美と目が合うと微笑んだ。 望美がいたことは知られていた。 立ち聞きしてしまったことに罪悪感もあったが、 弁慶が頷いてくれたのでもう一度九郎と話す決心がついた。 部屋を覗くと九郎は、望美に背中を向けて横たわっていた。 その背中から声が聞こえた。 「・・弁慶?」 「退屈なら少しお話しませんか?」 「望美!?」 振り向こうとする九郎に今度は望美が背中を向けた。 「弱ってる姿を見せたくないなら、そのままでいいですよ。 私も後ろ向いてますから」 「聞いていたのか」 「・・・ごめんなさい」 「いや、いいんだ。・・・・さっきはすまなかった」 九郎の声が少し遠くなった。後ろを向いたらしい。 「気にしてないって言ったら嘘になっちゃいますけど、 慣れました」 後ろで微かに笑う気配がした。 「あんな物言いしかできない。少しは弁慶を見習いたいのだが、
上手くいかない」 九郎が弁慶のように話す様を想像して、吹き出しそうになった。 「九郎さんは言葉を飾らないだけなんですよ。 みんなわかっていますよ」 「お前の優しさにばかり甘えてはいられないな」 「今日ぐらいは、いいってことにしませんか?」 どちらかともなく微かな笑いがこぼれた。 望美は耐えられなくなって後ろを振り返った。 九郎と視線が合い、互いに慌てたように逸らす。 望美は小さく拳を固めると、九郎に近づいた。 そっと、本当に軽く、九郎の手を握る。 「なっ!お、おまえ…」 驚いた拍子に九郎が手を振りほどこうとした。 九郎の顔が赤くなっていて、 だから望美も握る手に力を込めることができた。 さすがに振りほどかれては、もう一度握る勇気はない。 「人の体温って眠くなりませんか? 明るいうちから眠れるなんて滅多にないですよ」 九郎に劣らぬほど顔を赤くして、望美が力説する。 普段は忙しいからこそ、少しでも休息をとってほしかった。 それは弁慶も同じ考えだったに違いない。 その想いが伝わったのか、九郎が頷いた。 「…そうだな。最初で最後だ。 今日はおまえの言うとおりにしよう」 安心させるように望美に微笑んで、目を閉じた。 望美の手を握り返す。 そのことに望美は動揺してしまった。 繋いだ手を見つめてしまう。 手のひらに伝わる人の温もりは心地よかった。 相手もそう思ってくれているだろうか。 穏やかな寝息が聞こえる。 望美も繋いだ手の心地よさに包まれる。 どんな夢を見ているだろう。それが幸せな夢ならいい。 そしてその幸せな夢に居ることができたらいい。 そんなことを九郎の寝顔を見ながら、少しだけ願った。 END