夢の中で音が聞こえていた。楽器の奏でる音色が。 今まで握り締めていたはずの手触りが手の中から消えた。ころがっ
たそれは硬い音で一度だけ鳴った。意識がわずかに現実へと引
き戻される。望美は目を閉じたまま、手探りで鈴を探す。 伸ばした手の指に鈴が触れて音を立てた。その音に微かに重なって
音色が聴こえたと思った。身体を起こした。捕まえた鈴をしっ
かり手に握りこんで、耳をすませた。音色は本当に微かだった
けれど聴こえている。庭に出ると先程よりは、はっきり聴こえ
た。望美は邸の上を見上げた。 屋根に上ると笛の音を奏でる背中が見えた。 この世界に来たばかりの頃、何の音も聞こえない夜は不安で、灯り
が消えた部屋で目を閉じると辺りは真っ暗で、世界には自分ひ
とりしかいないんじゃないかと本気で考えた。今はもう慣れた。 敦盛の後ろ姿を見ていたら思い出してしまった。 声をかけるのをためらう。だが、笛の音がやんだ。気配を察知した
のか敦盛が振り向いた。 「すまない、神子。起こしてしまったのか」 「いえ、眠れなかったんです。起きていたらちょうど敦盛さんの笛
の音が聴こえてきたので」 「・・・そうか」 言いながら敦盛の隣に腰を下ろした。眠れなかった云々は嘘だった。
起こしてしまったことを気にして、笛を吹くことをやめてし
まうかもしれないと危惧してとっさについた。 「夜、よくここで笛を吹くんですか?」 「・・・時折。だが、今宵のように神子や誰かを起こしてしまうことが
あるかもしれない。それを失念していた」 「耳をすまさないと聴こえないですから、大丈夫ですよ。それに敦
盛さんの笛なら、睡眠の妨げにはなりませんから」 「そうだろうか」 「はい。絶対」 きっぱりと断言した望美を見ながら敦盛は笑む。 「ありがとう、神子」 風が吹かない月の光が明るい夜だった。2人の間に会話らしきもの
はない。望美は軽く膝を抱え込んだ。沈黙したことが少し不安
になった。 「もしかして私、敦盛さんの邪魔してますか?」 敦盛が不思議そうに「邪魔?」と繰り返す。しばらくして得心がい
ったように「ああ・・・」とつぶやいた。望美が居るほうへ顔を向
ける。 「そんなことはありえない」 「・・・よかった」 望美は心から安堵したように笑う。 「だが、もう休んだほうがいいのではないだろうか」 2人とも同じ条件のはずなのに、敦盛の心配そうな口調に望美はく
すくすと笑う。 「それを言うなら敦盛さんもですよ」 そんな望美を見て、敦盛は目を伏せた。 「神子、おそらくそれは私には必要ないものだ」 望美の顔から笑みが引いた。 「休息も食事も、私には必要ないのだろう」 敦盛は表情を変えることなく淡々と言う。単に事実を話しているよ
うにしか聞こえない。そして今ここで嘘をつく必要は敦盛には
なかった。 「皆と同じように過ごすことで自分自身のことを錯覚しそうになる。
私は・・・忘れそうになる」 何を、と訊かなくてもわかる。敦盛の正体は平家の公達で、人に非
ず。正体が何であれ、望美にとっては同じことだった。仲間で
大切なのは変わらない。 それならばいっそ、錯覚してくれたらいいのに。 敦盛にとって残酷なことを望美は思う。それでも錯覚している間、
苦しまなくてもすむのならと、そう思ってしまった。 敦盛の横顔を食い入るように見つめた。伝える決心を鈍らせたくな
かった。 「私は・・・敦盛さんが嫌じゃないなら、みんなと一緒に食事も休息も
とってほしいです。上手く言えないですけど、敦盛さんがいな
い食事なんて淋しいですから」 それは望美のわがままだ。同じように過ごすからといって敦盛は自
分が人の身だと錯覚することはない。けれど敦盛は微笑んでく
れた。 「そうか。神子、ありがとう」 その月に照らされた笑顔を綺麗だと思った。 「そろそろ休もう、神子」 敦盛が立ち上がった。望美はまだ座ったまま敦盛を見上げた。 「敦盛さん、お願いがあるんです」 「何だろうか」 「手を、繋いでもらえませんか?」 「神子、それは・・・できない」 敦盛の瞳をじっと見つめた。敦盛は首を振る。 「私は大丈夫ですから」 敦盛は困ったように微かに笑むと、望美に手を差し伸べた。望美も
その手を頼りに立ち上がる。敦盛の笑みに応えるように微笑ん
で。差し伸べられた敦盛の手を温かいと思った。 敦盛に手を引かれて、部屋の前まで戻ってきた。 「おやすみなさい、敦盛さん」 「・・・ああ。神子」 「何ですか?」 「起こしてしまってすまなかった」 「え?だって、私・・・」 敦盛は部屋の戸を閉め際、言った。 「私は神子が現れるまでずっと笛を奏でていたのだ。言わなくてす
まなかった」 敦盛が言い終えると同時に戸が閉まり、敦盛の姿は見えなくなった。
望美のついた嘘はそうと知られていた。恥ずかしさに顔が赤
くなるのを自覚しながら、まだ温かい手を感じた。もう片方の
手にずっと握りこんでいた鈴を温もりの残る手に乗せた。鈴の
音が小さく鳴った。目を閉じて、敦盛の幸せを希う。想いを馳
せる。 この人と共に生きる運命を・・・


最後の一文は入れるかどうしようか悩みました。 一部改訂しました。 20060404