9.いじわる・・・。

今日は弁慶が一日中いないと、前々から聞いていた。 朝早く京邸に顔を見せに来るだけだと言っていた。 それなのに起きられなかった自分を悔いた。 何か一言、言うだけでよかったのに。 それでも一日は普段と同じに過ぎていった。 ただ、いつもいる人物がいない朝餉も夕餉も何だか淋しく感じられ
た。 夕餉を終えてからは膳を下げる手伝いをしていた。廊下を歩いてい
ると後ろから軽やかな足音がした。 「神子!」 歩みを止めて後ろを振り向くと、白龍が駆け寄ってきた。 「神子!」 「どうしたの?」 再び歩き出した望美の隣に並んで、白龍がにこりと笑う。 「地の朱雀が帰ってきたよ」 膳をきちんと下げてから、望美は門を目指して駆け出す。 廊下の角を曲がったところで誰かが立っていることに気づいた。 衝突は避けられないと悟って、思わず目を瞑った。 軽く2、3歩分後方に吹っ飛び、尻餅をついた。 「すみません。大丈夫ですか?」 頭上から声がして、仰ぎ見た。弁慶だった。当の弁慶もさすがに
目を丸くして驚いていた。 「望美さん?大丈夫ですか?」 言いながら、望美に手を差し出す。 「そんなに慌てて、どうかしましたか?」 差し伸べてくれた手に縋って立ち上がることも
思い浮かばなかった。 望美は尻餅をついたまま、弁慶に言う。自然と笑顔がこぼれた。 「お帰りなさい、弁慶さん」 朝、何も言えなかった。だからもし京邸に弁慶が顔を見せることが
あれば何が何でも言いたかった。 弁慶は片ひざをついて、望美と目線の高さを合わせた。 そして笑顔を見せた。 「君にそんな顔をしてもらえるなら、一日だけなら姿を消すのも
いいですね」 「かっ、からかわないでください」 抗議する望美に構わず、弁慶は続けた。 「お帰りなさいという言葉、できれば毎日聞きたいですね」 「・・・いじわる・・・」 望美が赤くなって俯いた。 「からかってなんていませんよ」 俯いた望美が小さな声で「嘘だ」と弱々しい意義を唱えた。 楽しんではいますけれど。 それは弁慶が胸中で呟くにとどめた。