蝉の鳴き声が響いてくる教室。空調の設備自体がないこの教室は熱気に包まれていた。考えることが億劫になりそうな暑さの中、その片隅では顔を寄せ合って話をしている二人の姿が見える。
有川譲は夏休み明けに迫った球技大会について、実行委員の藤原と相談していた。
「なぁ、お前もう一競技出ねぇ?オレも出るからさ」
と言った藤原が目の前に座る譲の後ろを覗き込んだ。視線は明らかに譲を素通りし、その後方を見ていた。
「何だよ?」
「・・・今のお前の先輩じゃない?ほら」
藤原が譲に向かって"お前の先輩"と呼ぶ人物は一人だけ。振り向くと長い髪の毛先だけが視界の端に映った。見間違えるはずがない。ずっと見てきた後ろ姿。譲の一つ年上の幼馴染。春日望美。
「先輩!」
机を叩く勢いで立ち上がった。大股で教室の扉まで行くが、譲のとっさの大声にも振り返らなかった望美の後ろ姿は見えなくなっていた。
「追わないの?」
左側から、からかうような声がした。藤原が譲の隣に立つ。譲はその顔を見ない。一箇所を見つめ続けていた。
「行けばいいじゃん、先輩の教室にさ」
ようやく譲は藤原を見た。
「・・・別に、俺に用事だったかなんてわからないだろ」
「ふぅん」
揶揄が入り混じった面白がるような声。
「・・・・・・何だよ」
「べっつに〜。一年生のクラスの階に何の用だったのかなって思っただけだよ」
言いながらも面白がるような笑みは消えなかった。
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結局話し合いも思うように進まず、夕日も沈もうかという頃合に打ち切られた。
「また明日もこんな不毛な話し合いしなきゃなんないのかよ」
下駄箱に向かう廊下を歩きながら、藤原が伸びをする。それを横目で見ながら、譲が言い返す。
「不毛にしたのは誰だと思ってるんだよ」
あのあと藤原は女子生徒に呼び出された。そうかと思えば、しばらく戻ってこなかったのだ。圧倒的に少ない時間のやりくりががますます苦しくなった。
「人徳って言ってほしいね」
悪びれる様子もなく笑って言い放つ。人を惹きつける要素を兼ね備えていると思うが、本人の前で認めるのは癪だったので敢えて言い返さなかった。
「詮索するつもりはないけど、彼女か?」
藤原を呼び出した女生徒の顔を思い浮かべた。これ以上ないほどに顔を赤くした様子は、見てるこっちが恥ずかしくなったくらいだ。
「それを詮索って言わない?」
ふっと笑ってから、違うよ、と言った。その返答に譲が動揺した。違うなら、何で戻ってこなかった?口にしそうになった問いをかろうじて飲み込んだ。藤原がそんな譲にニヤリと笑う。
「何かいいたそうだな」
「いや、別に」
「言っておくけど、お前が考えるようなことは何もしてない。話を聞いただけ。何考えてんだ、この変態」
「なっ・・・」
絶句した譲に構わず、さっさと下駄箱から靴を出した。靴を落とす音が大きく響いた。履き替えながら、いつもの視界に見慣れないものが映った。同時に気配を感じた。見やると女生徒が立っている。門の前で、自分のつま先をじっと見つめながら。待っているのは譲だろうか、それとも別の誰かだろうか。
真正面から見るのは初めてだった。先輩で、譲の幼馴染の春日望美。 俯いた横顔は夕日に照らされていた。
「譲なら、もうすぐ来ますよ」
その声に望美が弾かれたように顔を上げた。目前に立つ見慣れない人物に戸惑った視線を投げかける。
「譲と同じクラスの藤原っていいます」
藤原の言葉にほっとしたように笑顔になった。待っていたのは前者だと、その笑顔でわかる。
「あいつと帰る約束だったんですか?すいません、球技大会のことでどうしても話しておかなきゃいけないことがあって」
そんな約束などなかったことは、知っている。するりと出てきたこの嘘に自分でも驚いた。案の定、望美はゆるゆると首を振った。
「私が勝手に待っていただけだから」
長い間待っていたのだろうか、心細そうな声音だった。望美がふと前方を見据えた。一瞬の後、満面の笑みが浮かぶ。
「先輩!?」
背後から譲の声が飛んできた。驚いているけれど、どこか喜びを感じさせる声。譲が望美の元に駆け寄った。
「どうかしたんですか?」
「あ、あのね、実は・・・」
一緒に帰りたいのだろうが、藤原に気を遣って言えないのだろう。意地悪く黙っていてやろうかと思ったが、すぐに思い直す。一瞬でもそう考えたことに内心で苦笑した。
「譲、オレ急いでるから帰るな」
「え?」
「じゃあ、オレはこれで」
望美に軽く会釈する。望美が笑顔で「ありがとう」と言った。自然に口元が綻ぶのが自覚できて、また苦笑した。
こっちはヒノエがおや?なもの。ちょっとヒノエが可哀想かな〜と思いました。
20060424