辺りは寝静まっているだろう刻。 すっかり闇に呑まれた外を眺めた。 眠れなかった。 外に出ると月明かりが足元を照らしてくれていた。 縁側に出て、座り込んで、月を仰いだ。 唐突に逢いたいと思った。明日の朝になれば、 逢うことなど容易いのに。 それでも今、逢いたかった。走って逢いに行こうかとも考えた。
次の日、全員に怒られるに違いない。 本人にも呆れられてしまうだろうか。 それだけで済めばいいのだけれど。 最悪、怨霊と鉢合わせしてしまったら。 思慮深い性格ではないけど、無謀な性格でもなかった。 ・・・・はずだったのだが。 葛藤が頭をもたげて、思案することしばし。 たまらなくなって立ち上がる。 「やっぱり駄目だ」 「・・・何がでしょう」 声の主は弁慶だった。 今の今まで逢いたくてたまらなかった人物がそこにいた。 不思議そうな表情を浮かべて立っていた。 「弁慶さん・・・」 嬉しかった。逢いたいと思ったら逢えた。 自然と笑顔がこぼれて、呼びかける声が弾んだ。 「あの、弁慶さんはどうしてここに?」 望美の笑顔の問いかけに弁慶は少々苦笑しながら答えた。 「私室の片づけを少々やっていたんですが、 日暮れまでかかってしまって。朔殿や景時が勧めてくれたので、
お言葉に甘えて今日はこちらに」 「そうだったんですか」 今度は弁慶が望美に問う。 「望美さんこそ、こんな夜半にどうしたんですか? 眠れないのなら薬湯を用意しますよ」 「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」 逢えたから、眠りたくない。けれど、言葉に出来たのは、 それだけ。 あんなに強く逢いたいと願っていたのに、 もう少し話がしたいのだとは言えなかった。 ただ、首を振ることだけ。言葉が喉にからみつくようだった。 話をしませんか。 たった一言がどうしてこんなに重く感じるのだろう。 弁慶は微笑みながら一度月を仰いだ。綺麗な月だ。 望美もつられたように月を見上げた。 月に照らされた望美の横顔をそっと見て、思う。 こんな月夜に語らうのも楽しいだろう。 「望美さんがまだ眠らないというなら、 僕もご一緒していいでしょうか?」 「はい!ぜひ」 願ってもない申し出だった。 二つ返事の勢いのよさに驚いたのか、弁慶は一瞬目を丸くする。 けれど、すぐに顔には笑みが戻る。 戦のときの冷酷とも見えてしまう鋭い眼差しが嘘のようで、 穏やかで優しい笑顔だった。 その笑顔で思い出した。 「こんな穏やかな日常に僕は浮いていませんか?」 ある日、弁慶は望美にそう言った。 どうしてそう考えるのか、不思議だった。 穏やかな日常にこそ、弁慶の笑顔は似合うと思っていたからだ。 その問いかけはずっと望美の心に引っ掛かっていた。 だから逢いたかったのだ。逢いたいと思った。 今思えば、 あの一瞬だけが弁慶の内面に踏み込めた機会だった気がする。 あの時以降、尋ねてもはぐらかされてしまうばかりだった。 いつも弁慶に主導権を握られてしまう。 だからこそ、今日は自分が主導権を握ろうと決めた。 まずは先手必勝。 「弁慶さんは穏やかな生活を望んでいますか?」 唐突な問いにも驚かず、 穏やかな笑顔のまま弁慶は望美に問い返した。 「望美さんの言う穏やかな生活とは、なんです?」 「武器を持って傷つけ合わないこと・・・。 そうすることが出来ること。でしょうか」 「なるほど・・・」 望美は恐る恐る弁慶の顔を覗きこんだ。 弁慶の表情は変わらない。 「弁慶さんは違うんですか?」 「・・・考・・・なかっ・・・んです」 「え?」 聞き取れなくてもう一度訊きかえす。 弁慶は望美を見て微笑んだ。 「そうですね。その通りなのでしょうね。望んでいますよ。 できれば、望美さんと一緒に・・・・」 弁慶が、こんな時真面目な表情になるのは本当にずるいと、 望美は思う。 いつものように微笑みながら言ってくれるなら、 こんなに自分の心臓の音を意識しなくてすむのに。 いつもならこれで弁慶の顔が見られなくなるはずだが、 今夜は違った。 弁慶の瞳を見て、笑顔で言えた。さっきの決意のおかげだ。 「ありがとうございます。嬉しいです。すごく」 もちろん、本心だ。そうできたのなら夢のように幸せだろうと、
思ってしまったのだから。 弁慶は望美の視線を受け止めたまま、 最小限の動きで望美の手を取った。 望美の肩がわずかに動いて、身体が硬直した。 「軽口だと思われているなら、悲しいですね」 そう言いながら、明らかに物理的な距離を縮めてくる。 後退りしようにもつかまれている手が邪魔をする。 望美の決意は脆くも崩れ去り、 弁慶の顔を見ていることができなくなった。 「顔を上げてください。困らせるためではないんですよ」 それは耳元で囁かれた。 弁慶の吐息が耳に触れて、ますます顔を上げづらくなる。 しかも声の調子に微かに笑いが含まれてると思ったのは、 たぶん気のせいではない。 「あの、・・・弁慶さん、もう少し・・・」 離れてもらえませんか、と言おうとして気づいた。 このまま、またいつものようにはぐらかされてしまうと思った。 想うだけでは何も変えられないことを、知っている。 だからこそ。 「本気で望んでいますか?」 弁慶が驚いたように望美を見た。 先ほどまで、耳まで赤くして恥らっていた少女はまっすぐに 弁慶の双眸を捉えていた。 用意しておいた言葉が口をついて出てこない。 その瞬間を望美は見逃さずに言い募る。 「本気で望んでください。願ってください。そしたら私は・・」 はっとしたように望美は口を噤んだ。改めて言い直す。 「私が証明してみせます。弁慶さんにも穏やかな生活が手に入る
ってことを知ってもらいます」 立ち上がった望美の顔を弁慶は見上げた。 望美はぺこんと頭を下げた。 「おやすみなさい、弁慶さん」 背を向けて歩き出す。 弁慶はすぐに後を追うことが出来なかった。 ふいにこみ上げてくる笑いを抑えるように口元を手で覆った。 望美には見えない。 見せられない。 望美と弁慶の距離が開いていく。 先ほどとは打って変わった穏やかな笑みを浮かべて、 立ち上がる。 少女を呼び止めるために。 「望美さん」 「はいっ」 呼び止められて、思わず立ち止まってしまった。 振り返ると、弁慶が近づいてくる。 手を伸ばしても届かないほどの距離で立ち止まり、 月を見上げた。 「今宵は綺麗な月ですね」 弁慶の言葉に、思わず月を仰ぎ見た。 雲の陰が見えない夜空に満月になりかけの月が一つ。 周りには星が瞬いている。 望美は弁慶の言葉に答えようと振り向いた。 きっと、弁慶さんと見ているからです。 望美の口が、きを形作る前に固まった。 弁慶が目の前に立っていた。驚いて声も出せない。 「きっと、望美さんと見ているからですね」 弁慶が言うなり、望美の腕を引き寄せた。 望美は弁慶の腕の中におさまっていた。 「べっ、弁慶さ・・・・」 望美は慌てふためいて、押し戻そうと力を込めた。 耳元でくすくすと笑う声がして、 弁慶の腕に一層力が込められる。 「いつか、望美さんの望むことを僕に教えてください」 その言葉に望美の胸は小さく痛む。 気づけば、弁慶との距離は先ほどと同じくらいに開いていた。 弁慶に抱きしめられたと思ったのは、 自分の願望が見せた夢なのじゃないかと思った。 夢にしては胸の鼓動は早いままだった。 「あまり遅くなると君の身体に障りますね。もう休みましょう」 「あ、はい。お休みなさい、弁慶さん」 「お休みなさい」 呆けたような声の望美に笑んで見せて、弁慶は踵を返した。 弁慶の背中が遠ざかる。 望美は後ろ姿を見つめながら、座り込んでしまった。 自分の鼓動が聞こえすぎて煩わしい。 何事もなかったかのような弁慶が、少し、恨めしかった。 「きっと、私だけなんだろうなぁ」 思わずそんな呟きをこぼして、小さな溜め息をついた。 顔の火照りを少し冷まさないと眠れそうにない。 弁慶はそんな必要ないのだ。 そもそも顔が赤くなるとか、そんな経験もあるのかどうか。 「あ、望美さん」 弁慶がふいに振り向いた。 望美は立ち上がって、弁慶の次の言葉を待った。 「できれば君を、離したくありませんでした」 みるみる顔を赤くする望美に、弁慶は微笑んだ。 END
タイトルが自分でも違和感ありまくりです。 タイトルつけるの苦手です。