[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。




いつかの風景

―神子。ああ、おはよう。 ―・・・ヒノエ?いや、今朝はまだ見かけていないが。 ―怪我の手当て・・・。ああ、確か腕を怪我したのだったな。 ―そうだな。弁慶殿に診てもらうのがいいだろう。 ―そうか。逃げているのか。それも仕方ないのかもしれない。 ―!?・・・うっ・・・。 ―大丈夫だ、神子。顔に当たったので少し驚いただけだ。 ―これは・・・木の・・・枝? ―あ、ああ。心配はいらない。どこも怪我はしていない。 ―いや、神子、本当に大丈夫だ。弁慶殿に診てもらうまでもない。 ―ヒノエのことだが、私も心当たりを探してみよう。見かけたら伝えておく。

***** 蝉時雨という言葉がある。頭上から降り注ぐ陽射しと空気中に散っていく蝉の声は、まさにそう呼ぶに相応しい。 大海を臨み、緑深いこの地の夏のひとときの喧騒は、天から恵まれた慈雨のように敦盛を包む。 波が岩にぶつかる音に耳を傾けながら、広がる青い海を眼下に見下ろす。敦盛の目線は今日はいつもよりも数倍、空に近い。 波に下方をえぐられた崖の上にそびえるように立つ大木。その枝に腰掛けて敦盛は海を見ていた。

「驚いたな。先客か」

敦盛の陣取る枝と、ちょうど対になる枝に少年が立っていた。紅色の髪を風にたなびかせ、敦盛を見ていた。鮮やかな紅の髪。この熊野一帯を治める別当の子息だと、以前に引き合わされていた。だが、互いに面識はあっても、言葉を交わす機会はなかった。

「ここはオレ以外登らないと思ってたんだけど。特にその場所は」

少年は敦盛の足元を顎で示す。大木そのものが崖っ淵に根を張っているので、敦盛の足元は海の上。敦盛は涼しい顔で座り続けている。

「怖くないわけ?」 「何がだ」 「落ちたら死ぬかもよ」 「それは怖いな」 「全然怖がってるように聞こえないんだけど」

示された足元に目を遣り淡々と答える敦盛に、少年は呆れたように言う。しばらくして楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「お前って、へんなやつ」

顔をくしゃりと歪めて笑う。とても印象的な笑顔だった。その笑顔で敦盛と少年との雰囲気が和らぐ。つられた敦盛も少し笑った。

「君のものとは知らなかったんだ」 「べっつに~。オレのじゃないさ。大抵のやつは、オレが今みたいに言うと二度とこの樹に登らなくなる。だから、オレ以外に登ってるやつを久々に見たから驚いただけ」 「そうか。・・・ここは気持ちがいいな」

新緑の匂いが辺りを包む中、吹き抜ける風に乗って潮の匂いが混じるのも。頭上に覆い茂る葉の隙間から射す木漏れ日も。木々のざわめく音も空を翔る鳥のはばたきも。

「この地は光があふれているようだ」 「熊野は熊野にある全てを祝福しているからね」

少年は軽々と敦盛の横に飛び移った。敦盛の片手を広げたほどの足場にしかならないこの枝。足元を見もせずに飛び移る様は見事としか言いようがない。

「熊野のよさはこれだけじゃない」

敦盛は少年を見上げる。熊野を見渡すその瞳は輝いている。少年の熊野に対する様々な思いが見え隠れしているようで、敦盛は期待感を胸に抱く。ついてこいよ、と言い残し、少年は枝から枝へと移動していく。敦盛には真似できない芸当だ。

「早く!早くしろよ」

幹に手をかけて立ち上がった。少年の急かす声に、焦りが生まれる。

「ま、待ってくれ」

敦盛が名前を呼ぼうとしたそのとき、少年が大声を張り上げた。

「ヒノエ!」

ヒノエと呼べと言いたいのだろう。あまりに間が絶妙で、心が読まれたのではないかと思った。そして遅れて可笑しさがこみ上げてきた。小さく笑いながらヒノエに追いつこうとして、見ている景色が大きく傾いた。次いで足場を踏み外したことを覚った。ヒノエの青ざめた顔が段々と逆さまになっていった。ヒノエがこちらに走ってくる。一挙一動がはっきりと確認できる。音は一切聞こえなくなった。遠く目に映る水面の煌めきの眩しさに敦盛もゆっくりと目を閉じた。





目を開けて一番に見たものは、木々の葉の天蓋。 寝かされていることに気づくのと、顔が覗きこまれたのは同時だった。覗き込んだのはヒノエではない。物腰柔らかそうな青年だった。

「気がつきましたか。どこか痛むところはありますか?」

口の中がからからに乾いていて話づらい。なので首を振って意思表示をした。そうですか、と安堵したように笑う顔がどことなくヒノエに似ていた。敦盛の見つめる視線に気づいたのか、困った顔で言った。

「サルのような甥で、すみません」

表情とは裏腹に楽しそうな言い方だった。

「ヒノエは・・・?」

声が掠れる。水の入った竹筒が差し出された。礼を言って受け取り、喉を潤す。ほっと息をつくと、青年は一方を示す。

「ヒノエならあそこにいますよ」

示された先にヒノエが立っていた。随分と距離が開いているせいで小さく見える。こちらを見ていた。敦盛が近づくとヒノエもこちらに歩いてきた。 海に落ちるはずだった。そうならなかったのはヒノエのおかげだと敦盛は確信していた。

「ありがとう、ヒノエ」 「いいさ」 「怪我をさせてしまった・・・」

ヒノエの腕にすり傷ができていた。薄らと血がにじんでいる。今、気づいたというように自らの腕を見下ろす。

「別に、そんなの。なめときゃ治る」 「・・・薬師の僕の前でよくそんなことが言えますね」 「・・・あんたの前だから言うんだろ」

いつの間にか敦盛の隣に立っていた青年が、にこりと笑う。どう見ても穏やかなその笑顔に、何故か敦盛は総毛立つ。内心で小首を傾げた。ヒノエが小さく息を呑むのがわかる。 青ざめるという言葉がある。ヒノエの顔から血の気が引いていく様は、まさにそう呼ぶに相応しい。 青ざめたヒノエは青年から目を逸らさずに、後退する。下草を踏む音がじりじりと鳴る。

「薬が染みるから逃げるなんて、まるで子どもですね」 「・・・・・・何と言われようがヤなもんはヤなんだよ」

***** いつかの昔の出来事に思いを馳せた。熊野はあの頃と変わらない。祝福という光にあふれている。 ヒノエが弁慶の薬を嫌がるのも変わらない。ということは弁慶の薬は相も変わらず、凄まじく染みるのだろう。 あの頃と変わらないものもある。そうであったことが嬉しく、少し悲しい。

「お前、心当たりなんてあるのか?」

笑いを含んだその声に、19歳の現在へと意識を戻す。樹の上からヒノエが姿を現した。

「・・・小枝を投げたのはヒノエだろう?」

ヒノエはくしゃりと顔を歪めて笑う。記憶にある懐かしい笑顔だった。

「お前が逃げてるなんて言うからだ」 「あながち間違いではないのだろう」 「敦盛・・・・・・お前、リズ先生に似てきたんじゃないか?」

ヒノエが小さく溜め息をつく。敦盛は微笑んだ。 この何気ない日々を、言葉を、焼き付けて。またいつか色あせることなく思い出せるように。


敦盛さん、お誕生日おめでとうございます。
というわけで、熊野の出会いを捏造してみました。
青葉の音2に提出させていただいたものです。展示されるのって、ものごっつ恥ずかしいのですね。
20060520